自由・未来・夢・愛をテーマとした私の作品を通して、陶芸という京文化・日本文化を担う一つの点がこれからの世界を結ぶ線となれるように願いを込めて…
昭和初期、陶芸の街京都五条坂にて祖父中村重山が仁清・乾山写の茶陶作りを始める。
その長男中村能久が昭和五十年に屋号を東福窯として開窯した。
その後、中村能久が研鑽を重ね、各種美術展にて入賞。全国各地で 個展を開催する。
平成元年に紫野大徳寺聚光院再住の小野澤寛海師により「源水」號を授かり現在、中村能久の長男治可が二代源水(二代能久)を襲名し ている。
父、中村能久(初代源水)は高取焼 窯元 初代 鬼丸碧山(おにまるへきざん)先生と親交があり、その知遇を得て当時ご住職であった小野澤寛海和尚により源水の號を拝受し、聚光院の出入りを許された。
後に、小野澤虎洞和尚がご住職となり、長男治可が二代、源水として薫陶を受けている。
大徳寺 聚光院は室町幕府12代将軍義晴に仕えた三好永慶(みよしながよし)の養子義継が永禄9年(1566年)に養父の菩提を弔うために笑嶺宗訴(しょうれいそうきん)を開山として建立。千利休が開祖・笑嶺住職に参禅したことから、利休の墓をはじめ、三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)歴代の墓所となっている。